その日、彼女はなかなか現れなかった。
第14回QOL輪唱兵庫講演会の当番世話人に決まってすぐに、その会での患者体験談発表を彼女に頼んでいた。
予定されていた講演者は3人で、彼女は最後。二番目の人の講演が始まっても現れず、先に教育講演をしてもらう手はずに奔走していたときであった。いつも外来で耳にするよく通る声がした。
「ごめん、先生。遅くなって」
「どうしたんかと思って心配したよ。プログラムの順番を入れ替えて待ってよと思っていたとこや」
「客席の一番うしろで、みんなが話すの聞いててん。私、毎年この会を楽しみにしていたから、今年も聞きたかってん。」
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彼女、Tさんに初めて会ったのは、前任のK先生が辞めた後の外来を私が引き継いだ2003年6月のある日だった。持ち前の明るさと人見知りしない性格で、すぐに打ち解けて話ができるようになったものの、術後3年が経過しており、再発兆候もなく、順調に経過する患者の一人で特に気に留めることもなかった。
そんななか、毎回の採血で血中CEAが不気味に上昇を続けていた。
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彼女は、両親が早くに離婚し、一人っ子として施設で育ったこともあって、一人娘はいたものの、以前よりもう一人子供を産むことを熱望していた。ただ、妊娠が乳癌の再発に結びつくのではないかとの恐れもあり、そのことを私になかなか言い出せないでいた。一旦は上昇を認めたCEAも下降傾向を示し、喫煙家である彼女にとっては正常範囲であったことにひと安心した私は、元の乳癌がER(-),PgR(-)のホルモン非感受性であったこともあり、次の妊娠は再発には影響しないし、海外では乳癌術後に妊娠、出産したケースはたくさんあることを彼女に告げた。
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数ヵ月後の外来受診日前日、彼女のデータをみると、血中CEAが正常上限を超えてさらに上昇していた。「再発に違いない」。翌日、どのように彼女にその知らせをつげようか、暗い気持ちのままに一日が過ぎ去った。
翌日、精密検査を受けるために妊娠をしばらく待つ事を告げる決心をして診察室に彼女を招き入れた途端、彼女はいった。
「先生、妊娠した!」
一瞬、目の前が真っ暗になったような感覚に襲われた。満面の笑みを浮かべて話す彼女を前にして、言葉を失ってしばらく呆然としていた。
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「香奈子が離れへんで付いてきてしもてん」
次女の香奈子ちゃんが車イスの彼女の手をしっかり握りしめて立っていた。どうなるかわからないまま、親友の女性とともに舞台に彼女を送り出した。彼女の横顔からは、気負いも緊張もみられず、いつもの良く通る声で、自分の生い立ちからこれまでの治療経過を話しだした。原稿も見ずに淡々と、目の前の人に語りかけるように話す彼女、彼女に抱きかかえられながら、無邪気に甘えている香奈子ちゃんを舞台のそででじっとみつめていた。
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被爆を伴う精密検査はできないことから、まず、エコーで局所、肝臓を祈るような気持ちで調べていった。しかし、その日の検査では再発巣は認められず、そのまま経過を見ることになった。一ヵ月が過ぎ、CEA,CA15-3はいずれも上昇を続け、再発は確実となった。妊娠12週を過ぎてから完全なシールドを用いてCTを行ったところ、肺、肝に再発が認められた。事態は最悪となり、中絶をして一刻も早く化学療法を開始するか、妊娠を続けたまま化学療法を開始するかの決断を迫られた。
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「私はそのとき先生に、絶対にこの子を無事に産みたい、といいました。自分の体のことなんか考えていませんでした。それぐらい欲しかった子供だったんです。」彼女のゆっくりした語りが会場に静かに響き、皆、車イスの彼女と香奈子ちゃんに釘づけになっていた。
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妊娠の継続を彼女は強く希望した。そこで残された選択肢は二つ。すぐに化学療法を開始するか、出産まで待って化学療法を開始するか。妊娠中の乳癌患者に対する化学療法は、12週以降の安全期間にはいれば、早産のリスクはあがるものの、胎児に対する化学療法の影響は無いとする報告が多く、安全に行える可能性が高かったが、まとまった報告や長期観察の報告は無く、安全な出産を希望する彼女に、自信を持って化学療法を勧めることはできなかった。
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「私はとにかく無事にこの子を出産したかったし、親の都合で早くに産ますことはしたくなかったんです。ですから、自然分娩での出産希望を先生にいったんです。そうしたら、普段やさしい先生が真剣に怒ったんです。」
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妊娠が進むにつれ、肝転移は徐々に増大し、肺も癌性リンパ管症の所見を示しだした。一刻も早く出産させ、化学療法を開始しなければ、手遅れになる可能性があった。「子供を産んでも育てなければ何の意味も無いんじゃないのか!帝王切開で産んで、一刻も早く化学療法に入らなければ、生まれる子の成長もみられずに死んでしまうぞ!」いつに無く声を荒げて、必死に彼女を説得していた。
「県立こども病院産科に連絡をとって、母子ともに安全に帝王切開による出産が可能なのはいつからかを診断してもらう。帝王切開で出産したら、翌日にでもこちらに転院して化学療法を開始する。」
半ば強引に計画を進めながら、自然分娩にこだわる彼女を必死に説得した。
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ようやく彼女を説得し、県立こども病院へ。妊娠27週に帝王切開で無事女児を出産。主治医に出産後の経過が問題ない事を確認し、翌日、救急車で転院させた。肺転移は多発し、癌性リンパ管症の像を呈しており、肝転移も無力な我々をあざ笑うかのように増大し、腫瘍マーカーは想像以上に高値を示していた。彼女の乳癌はHER2陽性。ハーセプチンが使えることにわずかな望みをいだいて、祈るような気持ちでハーセプチン+タキソテール併用療法を開始した。
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まさに奇跡とも言うべき著効をみせはじめたのは投与開始からわずか数日後であった。生まれた子供の様子は、旦那さんが毎日ビデオに撮って彼女のもとに届けていた。病室でビデオを何度もみながら彼女は劇的な回復をみせ、やがて元気に退院していった。
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「肺や肝転移が急速に落ち着いていったんです。大きな副作用も無く化学療法が続けられました。でも8ヵ月後には脳転移が起こったんです。」
会場に一瞬、張りつめた雰囲気が漂った気がした。「脳転移」という絶望的な言葉に、同じ乳がん患者としてみな敏感に反応しているように見えた。
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その後の彼女の闘病生活は次々におこる再発との闘いであった。脳転移に対しては、全脳照射、ガンマーナイフ、肺、肝転移には、ハーセプチンと抗がん剤の併用を繰り返した。彼女はいつも自分の乳がんに「お願いだからあばれないで」と語りかけていた。そして,家族や友人がみな協力して彼女の闘いを懸命に支えようとしていた。
その後も乳がんは容赦なく彼女の躰を蝕み、やがて髄膜播種による下半身麻痺で彼女は車イス生活を余儀なくされた。絶望のどん底に引きずりこまれそうになったそんな彼女を救ったのはやはり家族だった。
そんな中、周囲の心配をよそに、彼女は、私との約束をはたすため講演会への参加を決めた。
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「私は、乳がんが再発してこんな躰になりましたが、ここにいる、念願の二人目の子供も出産して、家族のささえでがんばっています。私と同じ年代の若い乳がん患者さんも、病気に負けずにがんばって下さい。」
講演は予定時間を20分以上オーバーして拍手喝采のなかで終わった。
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「みなさん、しっかりした原稿を作ってこられて、上手に話しはるわ。私なんかメモしか用意してなかったから、とりとめも無く長い時間話してしまってすいません。」 「そんなことないよ。君はみんなに話しかけるように、ぜんぜんよどみなく話してたんで、よく原稿もなく、あんなにきちんと話せるなーと感心していたんよ」
しばらく考えるしぐさを見せて、彼女はこう答えた。
「先生、それは、『心の原稿』をもっているからよ。乳がんの患者さんはみんな、それぞれが『心の原稿』をもっているから。」
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それから数ヵ月の間、彼女は家族と多くの友人に囲まれ貴重な時間を過ごし、
皆に見守られて旅立っていった。誰もが彼女の話をするとき、笑顔を見せるのを見ていると、彼女の強さと明るさがどれだけ多くの人に勇気を与えたかがうかがえる。
彼女が逝って数ヵ月、少しずつこの原稿を書きながら、自分にもいろいろな患者さんとの付き合いの中で書き連ねてきた『心の原稿』があることに気づかされている。桜の花が散っていくのをながめながら,この原稿をそっと心の奥にしまい込んだ。
兵庫県立がんセンター乳腺科 高尾 信太郎